ブログ

Blog

自己実現とは?桃太郎の心理学的解釈③

見られる自分(マザ・コンと自立の臨床発達心理学)鈴木研二著作を参考に現代的な解釈を試みたものです。

目次

心の内面への旅

昔話の桃太郎を心理学的に解釈すると、自己実現の方法が見えてきます。
桃太郎はどのように自己実現をしたのでしょうか。
現代に生きる私たちが学ぶところはあるのでしょうか。

①では、桃太郎の誕生と育ちについて書きました。
②では、桃太郎が動物たちを家来にすることの心理学的意味について書きました。
③では、鬼ヶ島での鬼退治について書きます。

桃太郎の旅は、心の内面への旅です。
心理学的にはどのように解釈できるのでしょう。

影との対決

桃太郎の旅とは、拾われなかった桃を回収し、統合していく旅です。
お婆さんが気に入らず、拾われなかった桃は、そのまま流れていきました。
そして、その桃からは犬が生まれ、雉が生まれ、猿が生まれました。
犬は村はずれで桃太郎を待っていました。そして桃太郎は一番最初に統合しました。
山では雉に出会い、桃太郎は受け入れました。
山奥では猿に出会い、同様に受け入れました。
この順番は、桃太郎が統合しやすい順番だと考えられます。
まず、犬が象徴する体を統合し、次に雉が象徴する感情を統合し、最後に猿が象徴する思考を統合しました。

体と感情と思考を統合した後に鬼ヶ島に向かいます。
鬼ヶ島とは日常意識とは異なる無意識の領域です。
外には見せない自分の影の住処です。
世間と相容れない自分の影の部分が存在します。

お婆さんが川にいくと、とても食べられそうにない、触れるのも嫌な桃が流れてきました。
お婆さんは、その桃から目を背けて見なかったことにしました。
これが無意識の働きです。
「否認」という防衛機制が働いています。

そして、存在すら無視された桃は川をくだり鬼ヶ島にたどり着きました。
桃からは鬼が生まれてきました。
桃太郎は鬼退治に行くと言い出しました。
普段は忘れているけれど、向き合わなければならないと薄々気づいていたからです。
鬼退治に行くと言い出したことは、「投影」という防衛機制が働いています。
鬼は悪いものだから退治しなければならない。

中世ヨーロッパで行われた魔女狩りと同じ心理です。
本当は自分の中にある受け入れ難い一部を他者に投影します。
そして「あいつのせいで病気が広がった。あいつは魔女だ」と糾弾したくさんの人が殺されました。
それだけ受け入れることが難しいものが影です。

桃太郎も同じ心理です。鬼は悪いものだから退治する。
しかし、桃太郎にはそれに対して何らかの疑問があったのでしょう。
真っ直ぐには鬼ヶ島には向かっていません。
山に向かっています。
そして、動物たちと出会い統合して鬼ヶ島に向かいます。

鬼の姿

「俺ぁ、日本一の桃太郎だ。鬼ヶ島に鬼退治に来たから、みんな覚悟しろ!」と言って、刀を抜いて飛びかかった。猿は長い槍を持ったし、犬と猿は刀を持って斬りまくった。

門から出てきた小さな赤鬼に桃太郎は問答無用で斬りかかっています。
村を襲撃する盗賊のようですね。これではどちらが鬼なのか分かりません。
魔女狩りと同じ心理が働いています。

鬼に邪悪を「投影」し、自分が残虐非道なことをする。
自分の残虐非道な行いは「否認」します。「正当化」します。
桃太郎は鬼になっていますが気づいていません。無意識になってしまうからです。

では、鬼は何をしていたかというと酒盛りです。
そして、「桃太郎がどうした」と言って掛かってきます。
鬼も無意識になっています。

鬼はアルコール依存症だと考えられますね。
アルコールに頼ることは「防衛的適応」と呼ばれます。
自分の中にあるつらい気持ちや感覚を無くそうとしてお酒を飲みます。
飲まないでいると、怒りや悔しさ、妬みや嫉妬、自己嫌悪や落ち込みの渦に巻き込まれてしまいます。
つらくて仕方がないので飲みます。つらい気分を紛らわしたり、酔っ払って不平不満を言ったり、管を巻いたりします。そして自分よりも力が弱い存在だと見るといじめや虐待をします。

鬼は実は生きているだけでつらいんです。
鬼ヶ島に閉じこもっています。
同じような心理の仲間と一緒にいて慰めあっています。
なぜこれほどつらいかというと・・・

日本一の黍団子

「桃太郎たち四人は日本一の黍団子を食べていたんで、何千人力分も強くなっていたものだから、鬼どもはみんな負けてしまった」

黍団子とは母性的愛情です。桃太郎はお爺さんお婆さんからたっぷりと母性的愛情を注いでもらっています。そして、鬼ヶ島に行くことを応援してくれています。たくさんの黍団子(母性的愛情)をもらっているので、それを犬や雉、猿に分け与えています。犬や雉、猿も桃太郎に母性的愛情をもらい受け入れてもらっています。桃太郎、犬、雉、猿は母性的愛情とエネルギーに満たされています。

鬼も桃に入って川上から流れてきた時は無垢な存在でした。しかし初めからお婆さんに嫌われてしまいました。存在すら認められていません。
「誰からも愛されない自分には生きる意味があるのだろうか。」
「自分なんかいらない」
「生きていたくない」
「他の人は幸せそうでいいな」
「ずるいな。幸せを奪ってやりたい」
「こんなつらい気持ちを無くしたい」
このような存在が鬼です。
受け入れてもらえなかった桃が何個も何個も鬼ヶ島に辿り着いたのでしょう。

もしかすると犬や雉、猿も一歩間違えたら鬼になっていたかもしれません。
桃太郎は鬼退治ではなく、野犬狩り、雉狩り、猿狩りに出かけていたかもしれません。
しかし、桃太郎に黍団子をもらい、犬、雉、猿は受け入れてもらえました。
どんなに嬉しかったことでしょう。愛されて満たされて、命をかけても桃太郎のために働きたいと思ったことでしょう。

母性的愛情とエネルギーに満たされた存在は強いです。
母性的愛情を知らず、エネルギーが足りなく、辛い気持ちや感覚の鬼が勝てるわけはありません。

鬼を許す

「鬼の大将の黒鬼は、桃太郎の前に来て手を付いて、大きな目から涙をポロポロと垂らして、「とても敵いません、命だけは助けてくだされや。今からは決して悪いことはしません」桃太郎は「なら、命ばかりは助けてやる」と言う。

鬼と戦い、鬼に打ち勝ち、鬼を許すと言うことは鬼を家来にしたと言うことです。
鬼をコントロールできるようになったことを意味しています。

鬼は桃太郎の影です。影は無意識なので気づけません。
「否認」したり「投影」したり「正当化」します。

鬼と戦うということは、自分の影の存在を認めることです。
見たくないし見るのはつらい。でももう逃げたくない。もう無視したくない。
自分の一部なのだからないことにはできない。

鬼に打ち勝つということは、無意識の行動をしたくないということです。
「防衛的適応」をしたくないということです。
嫌なことがあってつらくても酒に逃げたくない。食べることに逃げたくない。自傷行為に逃げたくない。物に当たりたくない。人に八つ当たりしたくない。

鬼を許すとは、鬼の気持ちをわかるということです。
やりきれないから過激な言動をする。飲んだくれている。クレームを言いまくっている。
しかし、その裏には「生きているだけでつらい。消えたい。死にたい」気持ちが隠れている。

鬼のことをよくわかることが大切です。
鬼をわかると鬼が怖くなくなります。
鬼をわかると鬼に支配されなくなります。
鬼をわかると自分が変わることができます。

自己受容はレジリエンスを高める

受け入れることができると、その心理をコントロールしながら表現することができます。

まずは、犬、雉、猿を受け入れました。
犬のように怒ったり、攻撃性を出したり、戯れあったりできるようになります。
雉のように喜怒哀楽を見せることができるようになります。
猿のように計算高くなり、作戦を立てることができるようになります。

犬は体、雉は感情、猿は思考を意味します。
バランスのよい体・感情・思考を手に入れることで、初めて鬼と向かい合うことができます。
体・感情・思考をバランスよく使うことができると無意識の行動が減ります。
体・感情・思考をバランスよく使うことができると「防衛的適応」が減ります。

なぜならばレジリエンスが高くなっているからです。
レジリエンスとは回復力を意味します。
何か嫌なことがあって影響を受けても、体・感情、思考を働かせることで、その影響が収まっていきます。
池に小石が落ちて、表面に波ができても、そのうち収まっていくのと同じです。

ストレスやショックなことがあっても、いずれ回復することを知ることは大切なことです。
時間の経過と自分の回復力委ねることができます。
無意識になる必要も防衛的適応を使う必要もありません。
「今はつらくても放っていこう。そのうち消えていくことを知っているから」

人生で起こることを受け止めることができると、本当の意味で人生を生きることができます。

桃太郎の自己実現

桃太郎は自己実現の昔話です。
自己実現とは社会適応ではありません。

「自分を生きたい。自分が本当にしたいことを実現したい」

でも自分とは何か、本当にしたいことは何かがわかりません。
それで桃太郎は旅に出ました。
内面を探る旅です。そしていろいろな存在に出会いました。

犬で象徴される体
雉で象徴される感情
猿で象徴される思考
鬼で象徴される影
 
それらは元々は桃太郎の一部でしたが、存在を無視されたり、認められなかったりして抑圧されてしまいました。
桃太郎はそれらと出会い、受け入れ、戦い、統合しています。

桃太郎のような存在はオトナを超えたおとなです。
大人(たいじん)と呼ばれる存在です。
それは禅の十牛図の第十図に出てくるような存在です。
大人(たいじん)の近くにいるだけで、人は感化され、目覚めや悟りや癒しを体験することができます。

もし、桃太郎が鬼退治に行かなかったらどうでしょう。
中身の探求よりも社会適応を優先させた人生です。
世間では「いい人、立派な人、頼りになる人」だったことでしょう。

年老いて死ぬ間際に人生を振り返ってどう思うか。
「よい人生だったな。子供も孫もいるし、財産も残せたし」と思うかもしれません。
でも、もしかすると「あの時鬼ヶ島に鬼退治に行っていたらどうなっていただろう。行ってみたかったな」と思うかもしれません。

どの選択でも間違いはありません。
自分が何を選ぶかです。
あなたはどんな人生を選びますか?

SHARE
シェアする

ブログ一覧

ページの先頭へ