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トランスパーソナル体験 悩みからの解放

目次

トランスパーソナル体験とは

人は日常的な意識状態を超えた意識状態を体験することがあります。例えば、アスリートやスポーツ選手などが体験するフローやゾーン、禅や瞑想での無心や一体感など。

このような体験はトランスパーソナル体験と呼ばれます。そして、トランスパーソナル体験をするとこれまでの悩みや苦しみがなくなったり軽くなったりすることがあります。

悩みや苦しみは個人的(パーソナル)なものです。個人を越える(トランスパーソナル)体験をすると、悩みや苦しみから解放されます。より大きな自己への目覚め、悟りとも呼ばれます。

お釈迦様は生老病死の苦しみに直面して出家し悟りを開きました。その体験が仏教を生み出しました。世界中の宗教は同じように作られています。ある人は、なんのために生きているのか分からなくなり、その答えを見つけるとその体験が新しい教えとなっていきます。

このブログでは、禅の言葉を参考にトランスパーソナル体験について書いてみます。

悟り以前・悟り・悟り以後

青原惟信(せいげんぎょうし)禅師は次のように書いています。

老僧、三十年前、未だ参禅せざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水なりき。すぐれた師にめぐりあい、その指導の下に修行して、いささか悟るところあって、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。いよいよ悟りが深まり、安心の境地に落ち着くことができた今では、また一番最初の時と同じく、山を見るにただ是れ山、水を見るにただ是れ水なり。

①山を見るに是れ山、水を見るに是れ水なり。
②山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。
③山を見るにただ是れ山、水を見るにただ是れ水なり。

①悟り以前②悟り③悟り以後と進んでいますが、悟り以前と悟り以後は同じ言葉で述べられています。
しかし、③では悟りが深まり安心の境地に落ち着くことができたと言っています。ということは①と③では同じ言葉を使っていますが、そこには安心の境地があります。もはや悩みや苦しみが存在していません。

何が起こったのでしょうか。

禅の十牛図

悟りのプロセスを表すのが十牛図です。

十の図で牛(悟り)を手に入れる流れが描かれています。
第一図の「尋牛」は「山を見るに是れ山、水を見るに是れ水なり」の状態だと考えられます。悩みや苦しみがありそこから逃れるため方法を探していても見つからない状態です。ここに出てくる青年は迷いの中にいます。

そこから禅の道に入り、師匠や書物と出会い、悟りを追いかけていきます。そのプロセスも興味深いのですがここでは割愛します。

そして、第八図の「人牛倶忘」が現れます。一筆書きで円が描かれています。この円は「空」を表しています。

盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師は次のような体験をしています。
盤珪禅師が或る朝、外に出て顔を洗うに際して梅の馥郁(ふくいく)たる香りが鼻をうった途端に大悟した。
それは、まるで桶(おけ)の底が抜けたようであった。そして歌を作っています。
 
「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」

人は「空」を体験することで生まれ変わります。

そして、第十図「入鄽垂手」では、手をブラブラさせて街に行くだけで、人を感化させて悟りを分け与えることができます。

空即是色

「空即是色 色即是空」とは何を指しているのでしょうか。

空とは空っぽのことを言います。色とは色とりどりのこの世界のことを言います。

「空っぽが色とりどりのこの世界だよ 色とりどりのこの世界は、空っぽだよ」と言っています。
同じことを言っています。

「空っぽが色とりどりのこの世界だよ」と聞くと宇宙の生成をイメージします。
ビックバン宇宙論では、最初は何もありません。何もないところは「空」です。
「空」がインフレーションを起こして爆発しました。爆発が広がることで時間と空間が生まれました。
私たちの住んでいる宇宙は、今でも爆発のエネルギーがあり膨らみ続けています。そして膨大な時間が流れています。その中で星々が形成され、太陽系が生まれました。そして地球です。地殻変動や隕石の墜落など様々なことが積み重なり大気ができて生命が生まれました。様々に進化して現在の生態系を作っています。そして私たち人間がいます。

膨大な時間と空間の拡大がありましたが、時間と空間を取っ払うと「空っぽが色とりどりのこの世界だよ」になります。 

色即是空

色即是空とは、「色とりどりのこの世界は、空っぽだよ」と言っています。

「色とりどりのこの世界は、空っぽだよ」と聞くと、サルトルが「嘔吐」で書いたことを思い出します。

「突然、実存のヴェールがはがれた。それは抽象的な範疇としての無害な見かけを無くしていた。それはモノの生地そのものだった。この木の根は実存の中で捏ねられていた。・・・奇怪な、ぶよぶよの、無秩序の塊だけが残っていた。むき出しの塊、ぞっとする卑猥な裸体の塊だけが。」

私たちは言語を通して、これはマロニエの木だと認識しています。マロニエという名前、木は根っこと幹と枝と葉っぱと花と果実からなっているという知識、幹は茶色で葉っぱは緑色という知識。それらはヴェールとなって存在を覆っています。そして、そのヴェールは私たちの脳が作っているものです。

山を見ても川を見ても、「あれは山、これは川」と脳内で即時変換されていんですね。つまり、過去の記憶のコピーです。実際に山に登ったことがなくても山の写真や映像を見るとそれが記憶に残りますよね。そして、初めて見る山にも「あっ、これは山だね」と脳内のコピーが出てくるわけです。しかし、コピーは本物ではありません。本物の上を覆っているヴェールです。

「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」と盤珪禅師がいう時、そのヴェールが剥がされています。脳が作ったコピーがなくなっています。

そこには一円相の輪があります。一筆書きの円です。つまり「空」です。

言葉や名前をとっぱらい、そのものを体験すると、それはもはや山でも川でもありません。
言葉や名前では表現できない「何か」です。

その何かは様々な宗教的伝統で「空、無、タオ、非二元、悟り、目覚め、神、仏」などと呼ばれます。

山を見るにただ是れ山、水を見るにただ是れ水なり

「空」を体験した後、再び山は山になり、川は川になります。
そして、安心の境地に落ち着きます。

しかし、その山は、脳が作ったコピーやヴェールではありません。
山、川という名称は持っているけれど、言葉にできない「何か」が絶えずそこにあります。
そして、それは絶えず変化しています。

鴨長明は方上記に書いています。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。」

私たちは、物事の本質を見ていません。脳内のコピー、ヴェールだけを見ています。
そのことに気づき、つぶっていた目を開くことを「目覚め」と言います。
目を開いて目の前にあるものをよく見てみる。よく聞いてみる。よく味わってみる。よく感じてみる。

そうすると、悩みや苦しみは、「今は存在しない」ことが分かります。
「今、ここ」には一瞬一瞬ごとに変化している「何か」がある。
新しく生まれ続けている「何か」がある。
泡のように消えていく「何か」がある。

安心の境地に落ち着くことができます。

まとめ

①トランスパーソナル体験とは・・・個人を越える(トランスパーソナル)体験をすると、悩みや苦しみから解放されます。

②悟り以前・悟り・悟り以後・・・悟り以前と悟り以後は同じ言葉で述べられるがその境地は異なっています。

③禅の十牛図・・・十牛図で特徴的なのは第八図です。人は「空」を体験することで生まれ変わります。

④空即是色・・・「空っぽが色とりどりのこの世界だよ」という言葉は、宇宙の生成をイメージします。

⑤色即是空・・・「色とりどりのこの世界は、空っぽだよ」という言葉は、サルトルが「嘔吐」で書いたことを思い出します。

⑥山を見るにただ是れ山、水を見るにただ是れ水なり・・・悩みや苦しみは、「今は存在しない」ことが分かります。そして、安心の境地に落ち着くことができます。

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